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唔駛去日本咁遠(後編):従化温泉に残る民国期別荘建築

前編では廣東溫泉賓館で「紅い」温泉地としての従化を堪能したので、自分の宿に帰ることにする。

mounungyeuk.hatenadiary.jp

自分の宿泊した北渓度假村は、当時攜程CTripで100元しなかった。広東温泉賓館の対岸、流溪河左岸に位置しているこぢんまりとした宿だ。

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自分の宿泊した北渓度假村

 自分の部屋は今回もまたツインだが、やたらに湿度が高くて、長くいると労咳になりそうな感じだった。これには理由があって、

從化溫泉

北渓度假村、部屋の浴槽。激アツ

それは個室に付属する浴槽なのだが、これが使っていない間も湿気を発しているらしく、また換気も全然行き届いていないのだ。

 翌朝、早速朝風呂と洒落込んだが、バルブをひねると壁面から熱湯(温泉)が大量に噴き出してくる。これがかなり熱くて、しばらくは湯船に浸かれなかった。従化の源泉温度は最低36℃〜最高71℃ということらしいので、納得の温度だ。高温のアルカリで全身の角質がモリモリ溶けていく……

 全身が溶かされたので、改めて街中の散策に向かう。

 1日目のテーマが「紅色」だとしたら、本日のテーマは「民国」。先に述べたように、この従化温泉は民国期より温泉地として観光開発が進められており、県政府により温泉までの道路が整備され省城から車で通えるようになると、少なからぬ貴顕が当地に別墅(別荘)を構えた。抗戦期までに築き上げられた温泉地としての格式が、人民共和国以降の「冬都」としての位置付けへと受け継がれているのだ

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「日本式」で開発が進められる従化温泉。1934年9月11日『工商晚報』(香港) 

 民国期に建てられたいくつかの別荘建築については現在も残され、利用されている。まずは有名どころを見に行こうと思う。

①飛機樓(劉沛泉別墅)

 劉沛泉(1893-1940)は広東南海の人。省城(広州)で教育を受けた後航空学校に進み、東京高等工業学校(現在の東工大)に留学し電機科(電気機械分科か)を修めた。雲南の軍人(滇軍の創始者)・唐継堯から請われて雲南航空学校校長、第十路航空司令を務めた後、唐の失脚により解任、国府の航空司令などを短期間務めた後に民間航空会社の重役を歴任した。

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眼鏡のズレた劉沛泉(翠溪賓舍文献芸術館の展示パネルより)

 1933年には広州で滇粤桂合弁の西南民用航空公司を設立、この時期に劉は低空飛行中の飛行機からこの温泉地を発見する。これを視察した劉らは日本で温泉地が観光名所として流行していることを知っており、ここにビジネスチャンスを見出す。早速採取した温泉水を二沙島で開院していたドイツ人医師に検定してもらい薬効のお墨付きを得ると、従化県県長の後援を受けて「玉壺溪館」を開業。温泉地としての従化温泉の繁栄はここに始まる。

民國時期別墅

飛機楼(劉沛泉別荘)、別名「若夢廬」。

 飛機楼は劉が1934年に建設した彼自身の別荘で、その見た目が飛行機に似ていることからそう呼ばれている(個人的には、見た目よりも劉の経歴から来ているのだと思うが)。かつては広東温泉賓館の従業員宿舎としても使われ、从化市第二批公布文物保护单位となっていた*1。確かに飛行機と言えなくもない左右対称の構成になっており、手前には劉自身が植えたといわれる南洋杉が立派に育っている。訪れた当時は特に使用されていないようだったが、2019年の記事を見ると、なにやらオリエンテーリング博物館として再利用されているようだ*2。館主の趣味が存分に発揮されており、いかにも温泉地の博物館類似施設らしさがあって良い。

②陳濟棠别墅

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陳済棠(1890-1954)
(張掖編《國立中山大學成立十週年新校落成紀念冊》1934年、Wikimedia Commons)

 陳済棠(1890-1954)は広東省防城県(現・広西壮族自治区防城港市)の人。客家人*3。粵軍で軍歴を重ね、蒋介石と桂系(広西派)との対立の間で広東に地盤を築き、蒋桂戦争のあった1929年には広東の軍権を掌握。そして蒋との対立の結果、1931年に胡漢民ら反蒋派を結集して広州国民政府を樹立した。この勢力は蒋の下野による国府の再統一の後も、国民政府西南政務委員会として正式に継承され、陳と胡の合作の下で広東省は半独立状態を保った*4。最終的に、陳は1936年に両広事変を起こして敗北、香港へ逃亡するまで7年の長きに渡り南天王」として広東を支配し続けた*5

民國時期別墅

陳済棠の別荘。黄色の屋根瓦が映える「夤宮」

 1936年建築の陳済棠の別荘だが、塀で囲まれた立派な2階建てだ。当時緑色の屋根瓦が一般的だった従化の別荘建築の中で陳だけが黄=皇帝の色の琉璃瓦を使っていたといい*6、「南天王」の権勢と驕りを感じさせる。

民國時期別墅

入れないので裏に回った

 訪問当時絶賛改修中であり、残念ながら中を見ることは叶わなかった。建物正面には噴水があり、2階のバルコニーには「陳濟棠別墅」の扁額が見える。改修作業をしていた人が言うには、リノベしてるから、綺麗になったらまた見に来てとのことだった。宿泊施設ならもう開業しているだろうか、泊まれるものなら実際に泊まってみたい。

③その他民国期の別荘建築

民國時期別墅

このタイプの錦蝶(外来種の瓦松)、めちゃくちゃ好き

 この他にも、謝瀛洲(従化の人、民国期の法学者。西南政務委員会のメンバー)のものなど、従化には民国期に建てられた別荘建築が点在している。そのいくつかは所有関係が曖昧なのか、ボロボロのまま放置されているものなどもあった。

 自分は廃墟とかも好きなのだけれども、海外でこの手の建物に入ってみたい時にどうするべきか、毎回逡巡してしまう。基本的に所有者の許可を得なければ法に触れかねない行為であるので、なるべくトラブルは避けなければならない。自分は近所の人に所有者の有無を尋ね、その上でその人が近くにいたら直接お願いしてみる、所有者不明なら近所の人たちに「入ってみていい?」と聞いて事前に了解を得る、ことにしている。そんなことをやっていても結局は自己満足なのだけども……

民國時期別墅

民国期別荘建築。今は周辺住民達の物置き小屋

 この建物も、窓は割れ蔦は絡まり……といった状態で、開け放された扉の先には近所の方が寛ぐ際に使っていそうな椅子やら、箒やらが置かれていた。近隣の方に全然見ていいよ、と言われたので軽くお邪魔する。

民國時期別墅

民国期別荘建築の浴室

驚いたのは、この建物には浴室が4つも備えられていたことである。便器、鏡、洗面台、浴槽がどの部屋も同じ配置で誂えられており、清潔な感じのするタイルが貼られている。

民國時期別墅 民國時期別墅

こちらの浴室には洗面台が残されていた(左)
鉄扉があることから、複数世帯が住んだことが窺える(右)

 別荘としては1家族分の大きさだと思うので、戦後になってから複数世帯向けに分割されたのだろうか。中国でこのサイズの立派な浴槽が複数ある家というのはかなり珍しく、つい見入ってしまった。

民國時期別墅

地元の方曰く、「国民党が残していった」建物

 もう一軒、往時の別荘建築を見つけた。こちらは瓦が青く、窓枠や枓栱が塗り直されているように見えるが、無住であった。「知らんけど、国民党が残していった」ということで、これも中を覗く。

民國時期別墅

達筆。自分には柱に書かれた「無敌(無敵)」しか読めない

 先ほどの建物と同様の浴室があったので、もしかしたら規格化されていたのかもしれない。清潔だが豪華とは言えない気がするので、これも戦後の改装に思える。香港の山に行くと、誰かが法面に経典や詩文などを落書きしているのを見ることがあるが、この部屋にも似たような文字が書かれていた。達筆に過ぎて自分には読みこなすことが出来ない。

 民国期に別荘を立てた人の殆どはこの地を去って行ったはずで、人民共和国の下で「冬都」となった従化の別荘に住むこととなった人々はどのような人たちだったのだろう。そもそも温泉開発以前にここに住んでいた人は殆ど居ないだろう。大物は広東温泉賓館に泊まっただろうから、こうした別荘建築も別の保養施設に転用されたり、あるいはホテル従業員宿舎だったり、一般の住宅とされたのかもしれない。こうした建物が見守ってきた従化の1世紀と、その間ここに住んでいた人々の生活に思いを馳せてしまった(廃墟に行くと人はポエム詠みがち)。

おまけ:帰路

 帰ることにしよう。従化温泉の商店街から从化客运站(従化客運站、中長距離のバスターミナル)まで路線バスが走っている。温泉だけで、従化区の中心部の方は全然見なかったな……

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またここに戻ってきた

 このバスターミナルから行ける所を探す。当初は広州戻りかなと思っていたが、看板をじっくり眺めると罗湖(侨社客运站)までの路線があった。僑社客運站は羅湖口岸目の前なので、ほぼ香港に直帰できることになる。

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路線案内を見るのは楽しい

バスの行き先を見ると、上水や太和など、見慣れた地名が散見されるがどれも見ず知らずの広東省の地名だ。香港は畢竟広東省でもド辺境だった土地なので、地名も田舎らしいシンプルなものが多く、その他沙田や灣仔など、結構他と重複するものがあったりする。

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いつもの光景

 受付でチケットを購入。鉄道乗ると人名かなり適当で発券されることが多いが、こういうバスでもパスポート番号と氏名はしっかり控えられる。片道95元。深圳行きのバスが来るまで待合でぼーっとする。どの交通工具もバスターミナルの発想で作られているので、待合でぼーっとしていると中国にいるんだな……という気分になる。

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従化発深圳(僑社站)行のバス

 バスがついた。ここからノンストップで深圳に向かい、大体2-3時間で到着するらしい。バスは黄埔あたりに出ると、珠江(獅子洋)の左岸をぐんぐん南下していく(広深沿江高速公路)。東莞あたりでは何本も支流(東江とその分岐した水道)が合流するが、その支流一つ一つがどれも大河で、貨物船が行き交い、船渠が並んでいたりして、スケールの大きさが半端ではない(そもそも虎門自体が珠江の河口の一つでしかない)。

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珠江の支流(東江)の支流

 車窓を眺めていると、漁港あり工場あり農村あり養殖地あり何にもない湿地あり、それぞれの河口の風景が変化に富んでいて飽きない。虎門を過ぎ、深圳宝安機場の脇を通る頃には広深沿江高速公路がだいぶ混んできた。深圳では濱河大道を、これまた深圳湾(後海湾)から深圳河をなぞるように東進する。羅湖に着くまでに深圳湾、福田(皇崗)と香港との口岸(チェックポイント)のある地点を通るので、余計に交通渋滞の中に突っ込んでいっている感じがした。

深圳

僑社客運站から羅湖口岸を望む

 2時間45分で僑社客運站に到着。僑社客運站周りには商店の類はなく、バックヤードといった雰囲気で、ちょっと殺伐としている。まあ、羅湖自体が殺伐としているが……

深圳

東方宮の蘭州拉麵。広東にあって各地の料理を食べられるのが深圳の良さ

 直で口岸に向かえばいいのだが、まだ4時台だったこともあり、ofo漕いで北上、本屋に行って《三体》シリーズを購入したり、晩御飯として東方宮で蘭州ラーメン食べたりしていたら真っ暗になっていた。

深圳

羅湖口岸

 ライトアップされた羅湖聯検大楼(1985年竣工だが、なんと深圳市の歴史建築*7)。「南天王」陳済棠の別荘のような黄色の瑠璃瓦がギラギラと輝く下で、人民は薄暗いピロティをくぐって口岸に進入していく。

 兎に角見た目優先で実用性に結びつかない中国宮殿風の建築……というと悪く言っているようだけど、改革解放への意気込みや国の威信をかけて頑張って作った感があり、「オレはやるぜオレはやるぜ」といった趣で結構好きだ。自分も薄暗いピロティをくぐり抜けて、帰る。

 従化温泉、香港人が「日本みたいな遠くまで行く必要ない」と感じるとは全く思わないが、温泉もいいし、昨今のリゾート開発で出来た感じの場所とも違うし、結構面白かった。また泊まりに行きたいと思う。

*1:梁振中、李剑波「刘沛泉故居」

*2:国内首家定向博物馆在广州,来跟记者一起探营_手机搜狐网

*3:瀬川(2005: 13-14)によれば、陳が客家である可能性は十分にあるが、「言語上、系譜上、人脈上の客家としての性格付けが、今ひとつ明確ではない」という。瀬川昌久客家アイデンティティー形成過程の研究:中華民国初期の著名政治家・軍人の出自をめぐる議論を中心に」『東北アジア研究』第9号、2005年、1-33頁

*4:瀬川昌久、前掲論文;張集歓「1930年代における国民党党内権力闘争の一側面 : 寧粤対立の中の蒋胡合作構想」『北海道大学大学院文学研究科研究論集』第15号、2016年、19-34頁。

*5:彼の統治下、省城では都市建設やインフラ・教育整備などが進められた。前編で宿泊した愛群大酒店もこの時期に建設されたものだ。落成時には彼は既に下野して広東にいなかったが。

*6:从化大小事「从化温泉竟然藏着一所80多年历史的宫殿式别墅,建于1936年!」2018年2月21日

*7:深歷史建築名錄「31歲」羅湖聯檢樓入選