亞的呼聲 Adiffusion

中華と酒と銭湯と

渋谷のライオン、世界的のライオンと、「〜的の」という日本語にときめくこと

はじめに

 名曲喫茶ライオン、という店が道玄坂の百軒店にある。
 東京の名曲喫茶やレトロな喫茶店好きで知らない人間はまあいないだろうといった感じの、超定番の銘店だ。

 自分は名曲喫茶が好きだ。自分は日頃から余りクラシックを嗜まない方だと思うのだが、名曲喫茶に行けば知らない音楽(名演奏といった類の)に出会えるし、どことなく優雅な気分でリラックスできる。これはクラシック音楽というものを、非常にスノッブな態度で消費しているのだろうとは思うけど。
 更に言えば、コンサートと違って読書もスマホも出来るし、コーヒー1杯の値段で座れるし、コーヒーが飲めるし、吸いたい人はタバコも吸えるし、途中退席で白眼視されないし、普段使っている名創優品で200円のイヤホンよりは余程音質もいいし、何より演奏終わった後のあのクソ長い拍手が無いので最高だ*1

「〜的の」という日本語

 ところで、名曲喫茶ライオンは創業は昭和元年、現在の建物も昭和21年と、かなりの歴史を持った老舗なのだけど、その重厚な内観と壁一面の時代がかった音響設備(と建物が歩んできた時代の変遷を感じさせる便所の落書き)が物珍しいため撮影する客があとを絶たず、現在は撮影禁止だ。
 店に滞在した記念として、客が唯一持ち帰られるのがその月の定時演奏のプログラムなのだけど、その図柄や、「帝都随一」といった文面も、創業当時〜戦後まもなくといった感じのレトロな空気を纏っている。

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このプログラムの中に、僕が毎回眺めてはうっとりしてしまう(?)文言がある。

アメリカの雑誌オーディオに当店の演奏装置が写真入りで掲載になりましたので渋谷のライオンは世界的のライオンになりましたことを光栄に存じております。 ——昭和三十四年——(太字は著者)

 自分でもよくわからないが、僕はこの「〜的の」という表現を見ると脳でα波が噴き出るようになっているらしい。多分、日常からほぼほぼ消滅したであろうこの「〜的の」が、見慣れた口語体の中に突然現れる、その違和感に惹かれているのかもしれない、分からない……このことについて、意外に共感を集めたのでちょっとだけ、調べてみた。

 なんと、はてなブログにど直球の記事があった。

satzz.hatenablog.com

 当該記事では、現代日本語書き言葉均衡コーパス「少納言」を利用して「〜的の」の出例を探ることを試みていた。「〜的の」の出例が32件ということだが、思うに「少納言」の場合は70年代以降のデータからしか検索できないということもあろう。

 では反対に、「〜的な」を検索してみたらどのような結果が見られるだろうか?

日本語コーパスを初めて使った

先ほどの説明は説明としてわかるわけでありますけれども、何らかの積極的な指導というものが図られる必要があろうというふうに思うわけであります。衆議院常任委員会にて、竹村委員の発言。『第77回国会会議録』、1976年。)

これが「少納言」で発見しうる、「〜的な」の最も早い用例であった。「少納言」には『国会会議録』は1976年以降のものしかないので、これ以前の発言を確認することは出来ないが、少なくとも1971~75年に出版された書籍の内、本コーパスに収録されたデータには「〜的な」を含む文章は存在しなかったということになる。
 一方で、「〜的の」の場合、引用の疑いやそれ以前に書かれた書簡や全集への再録を除いても、

問題は二つあった。一つは対外的の問題で、ポツダム宣言受諾の条件、すなわち日本の国体の問題、天皇制の問題に対して、……細川隆元『男でござる:暴れん坊一代記 風の巻』山手書房、1981年)

であったり、

流行のプレファブのユニットハウスであり、情緒は毫もないが、機能的のようである。森村誠一『悪魔の圏内』実業之日本社、1988年)

或いは

古代の米についても、現在の米と同じように、最新の分子遺伝学的の成果を応用できることを示した点で意義は大きい。(柏原精一『図説 邪馬台国物産帳』河出書房新社、1993年)

など、90年代になっても例は少ないものの書き言葉としてはボチボチみられるようである(森村の用法は「〜的のように思える」の如き場合は殊更の違和感はないが…)。「〜的の」使用者は皆戦前生まれだった。尚、『国会会議録』での検索結果では、1985年の第102回国会衆院特別委員会で青山委員の放った「懐疑的の」が口語上に現れた最後の「〜的の」であった。
 書籍において、「〜的な」は1975年の外岡秀俊『北紀行』を皮切りに、86年以降爆発的に増え出すようだ。ここから、尤も、先行する記事が言うように、このコーパスは検索結果の表示にやや不安があることや、70年代の収録書籍数が少ないという懸念もある。
 政府白書に絞って検索すると、政府作成の文書においては恐らくは76年時点で既に「〜的な」に統一されていることが分かる。ここをもう少し遡って検討できればいいのだが……。

結論?雑感。

 まとめると、70年代には既に口語では「〜的な」が優勢であったものの、書き言葉に関してはまだまだ「〜的の」が用いられ続けていた。しかし70年代後半には既に政府文書で「〜的な」が採用されており、80年代半ばに至ると一般書籍においても支配的になった、と考えてよいだろうか。本来なら検索結果数などを図示したいところだが、パス……

 そもそも接尾辞の「的」自体が、江戸時代に輸入された中国の白話小説に始まり、明治に入って西洋近代がもたらした諸概念の翻訳に多用された経緯があり、当初その語感は硬く、専ら訓読体の学術・評論分に使用され、くだけた文章には用いられるところ少かったという*2。言文双方で「〜的な」が支配的になった後も「〜的の」が書き言葉として細々と命脈を保って?いたのも、「〜的の」の方がどことなく“戦前派”らしき雰囲気と格調の高さとを感じさせ、文語体をメインに使用されてきた接尾辞「的」との相性がよかったのかもしれない。

 また、これは想像の範疇を出ない考えだが、学校文法において「形容動詞」という区分が採用され、その連体形として「〜な」が採用されたことが大きいのではないか、とも思う。
 試みに、戦後学校文法の原点とも言える文部省『中等文法 一』および同『中等文法 二』(それぞれ1944年。広島大学図書館 教科書コレクションデータベース)を参照する。一が口語、二が文語である。これらの「形容動詞」の項目には、当然かもしれないが連体形として、或いは語幹のみの用例として「の」を用いたものは見当たらなかった。

Wiki見ただけだけど、形容動詞の連体形「~な」の語源は、文語「~なり」の連体形「~なる」が変化したもので、江戸末期以降こうした用法は見られなくなり、「の」で接続することが一般的になった、らしい。「〜的」という語幹に限って言えば、昭和の終わりには逆に「の」を「な」が食った状況が伺えて、面白い。

 

*1:勿論、一度きりの生演奏に対して拍手が長いのは当然のことだ、とは思いつつも、途中から両手に痺れを感じながら「指揮者何度も出たり入ったりせんといてくれ〜」とか、「伏せ拝」とか思ってしまう

*2:望月通子「接尾辞『〜的』の使用と日本語教育への示唆」『関西大学外国語学部紀要』(2)、2010年。尚冒頭の先行研究のまとめのみ読んだので、これはガッツリ孫引きである。時間があれば是非参照したい