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チャイナタウンから見る、NZにおける華人コミュニティの歴史と現在【前編】

はじめに

 野暮用で2週間ほどニュージーランドNew Zealand, NZ/紐西蘭, 新西兰)に行っていた。
 初の南半球ということもあり、滞在中はほぼ毎日美味しいNZワインを飲んで楽しんでいたのだけど、自分の居たオークランド市(Auckland, AKL/屋崙, 奥克兰)と言うところは中々国際的な街で、特に華人を中心としたアジア系の移民が目立つ印象だった。
 本記事では旅の思い出の備忘も兼ねて、滞在中に収集した数点の資料なども参照しつつ、近年チャイナタウンの形成が進むDominion Rd.一帯の状況を紹介しておきたい。これからNZ旅行を検討中の読者の皆様におかれては、これを参考にして旅行中のプランを練られると良いと思う。全く思わない。
 今回は前編ということで、チャイナタウンの巡検の様子を紹介する前に、NZやAKLと華人*1の歴史について簡単に纏めておこうと思う。要は自分のメモ代わりなのでアレだが、辛抱強くお付き合い願いたい。

Aucklandの概要/屋崙市簡介/奥克兰市简介

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Queen St.はオフィスビルのほか、劇場やシネコン、百貨店が建ち並ぶAKLの目抜き通りだ

 オークランド市はニュージーランド最大の港都であり、オセアニアポリネシア地域有数の世界都市として、人口及び経済上は現首都ウェリントンを凌駕する規模を誇っている。1865年までは実際に首都が置かれており、港湾部を中心に税関や銀行、劇場。百貨店といった歴史的建築物が建ち並ぶ。人口は都市圏で1,394,000人で、うち約40%の出生地が海外という国際色豊かな都市でもある*2。近年はその住環境の良さから移民を吸引する一方、住宅地が投機の対象にもなっており、住宅危機が深刻視されている。
 14世紀以降にマオリの集落が存在していたが、都市としての歴史は1830年代になってヨーロッパ系入植者がマオリからの土地購入を進めることに始まる。1840年マオリの諸首長とイギリス王権との間に結ばれたワイタンギ条約によってこの地がイギリスのものとなると、1841年にはオークランドは首都に定められ、主要街路や教会の建設が進んだ。50年代、60年代になるとマオリ戦争やマオリ王擁立運動に対抗して1万超の帝国・植民地連合軍が駐屯したが、これによって商業が発達していった*3
 20世紀になるとトラムや鉄道など交通機関の発達により、都市が郊外へと発展していく。郊外にはこの時期の商業建築が非常によく残っている印象である。1980年代には規制緩和によってウェリントンから多くの企業の誘致に成功し、経済・物流上の中心地になった。

NZの移民政策とAuckland/奥克兰与新西兰的移民政策

 ワイタンギ条約以降、イギリス本国やアイルランドからの入植者や軍人が流入する。ゴールドラッシュやプランテーションのために急増したアジア系の移民に関しては、1881年の中国人移民法など永らくイギリス・アイルランド系以外に対する厳しい制限が加えられることになった。二次大戦後はオランダなどヨーロッパ系に対しての条件が緩和されたものの、引き続きイギリス系が優遇される中でアジア系への門戸は依然閉ざされたままであった。
 労働党政権下、1986年になって出されたImmigration Policy Review、それに続く1987年移民法によって漸くアジアからの移民受け入れに対する差別が撤廃されるとアジア系移民の数が激増し、オークランドはその目的地として人気が集中した*4。結果、1961年センサスでは1%にも満たなかったオークランドのアジア系人口は2013年までに23.1%に達し、特に中心部では過半数を超えるに至った*5

NZ華人の移民史/紐西蘭175年華人移民史

 海外移民は12世紀に遡ることが出来、清初以来の禁制にもかかわらず福建広東2省を主な送出地として行われてきたが、18世紀中葉から東南アジアでは、海上人とは別の、無資本の華人労働者の流入が顕著な傾向となった。これらの苦力は鉱山開発やプランテーションへと従事していた。清末にアヘン戦争の結果として、清朝からイギリスへ香港島が割譲されると、香港やその他の開港場を拠点として「苦力貿易」が本格的に開始する*6
 近代中国の始まりとも言われるアヘン戦争の戦端が開かれた1840年に、NZもワイタンギ条約によってイギリス帝国の版図に組み込まれている*7。全く同時期にイギリスの主導する自由貿易世界に引き摺り込まれた両者であるが、NZへの華人流入は、この自由貿易下の低賃金労働者「苦力」として流入した人々に始まるのだ。
 以降、NZ華人移民に関する呉[1959]*8や西川[2006]、AKL市内で参観した華人コミュニティに関する展示と各種報道を参照しつつ、その歴史を概観しよう。去年2017年はNZ華人移民175年の節目であり、Auckland War Memorial Museumでは「華夏人與長白雲故鄉/Being Chinese in Aotearoa」といった企画展が催されていたほか、滞在中もその企画中に制作された漫画作品『低調成功人士/The Quiet Achievers』の原画展がAuckland Central City Libraryで開催中であった。

www.aucklandmuseum.com NZに初めて上陸した華人は1842年10月25日、弱冠20歳でこの地に辿り着いた黃鶴廷 (Appo Hocton)である。彼は苦力ではなく、まだイギリス本国からの移民が本格的に入植するする以前に荷馬車運送で成功した*9。しかし彼は例外的で、やはり大部分は苦力としての流入であった。19世紀の半ばのアメリカ西海岸の「旧金山(サンフランシスコ/三藩市, 桑港)」、オーストラリアの「新金山(メルボルン/墨爾本)」などでゴールドラッシュが起こると、NZでもOtagoなどに金鉱が発見され、苦力が流入するようになる。こうした移民は1850-60年代に大挙して押し寄せ、金鉱が細った後は農業や洗濯、雑貨、料理といった各種サービス業に従事することになった*10
 華人の参入は他の入植者との競争・摩擦を生んだ。隣国オーストラリアほどではないにせよ、NZも中国移民のpoll taxの徴収によって流入数を抑制しようとする中国人移民法を制定し、上述のように制限を加えていた。華人が再び増加するのは日中戦争が始まり、在NZの華人が戦災地から妻子を呼び寄せたり、人道的見地から政府が上海等の難民や戦災孤児の受け入れを行ったりしたことによるもので、彼らがNZにおける「老移民/oldcomer」である*11。「新移民/newcomer」については、上述の移民政策の転換以降に増大したものである。現在NZの華人系人口は17万人余、全体の4.3%に達しており、老移民と新移民の間では経済的・政治的な競合関係も見られる*12。それでは、具体的な経緯と状況について、AKLに即して見ていきたい。

AKL華人社会の展開/屋崙華人社會

 AKLにおいて、20世紀初頭までに老華僑は都市の外縁部、Hobson St.にチャイナタウンを形成し、雑貨店の出店が相次いだ。市役所は1960年代に一帯を再開発し、チャイナタウンの面影はほとんど失われたが、Soung Yueen、Tai Ping、Wah Leeといった老舗が営業を続けている*13
 戦時中には、上述したように難民救済の機運が高まり、AKLでも市政府が中央政府、宣教団、赤十字とともにFar-East Relief Fund (遠東賑濟基金) 設立に協力したほか、中国戦災孤児の養子縁組事業にもあたっている*14
 戦後になると、老華僑の中には20世紀初頭に住宅地開発が進んだ郊外でも、増加する人口を相手にした小売業で成功する者が現れた。Otahuhuでは1958年にTom Ah CheeらがNZ初のアメリカ式スーパーマーケットFoodtownを開店、これはNZ最大のスーパーマーケットチェーンCountdownに繋がる源流の1つとなっている*15
 Immigration Policy Reviewが出された1986年時点で、AKLの華人人口は10,548人(出生地別に中:1,668、港:561、台:39、馬:597、NZ:5,250)であったが、2006年に至るまでに97,425人(中:53,695、港:5,280、台:7,323、馬:6003、NZ:17,682)へと急増していることが分かる。2000年代に入ってから香港・台湾系人口が微減しているのに対し、大陸系人口はほぼ2倍に増加しており、特に大陸出身者の増大が著しい*16。これはNZでは技能移民やビジネス移民に留まらず、1年以上留学する学生数も移民数に計上されることも一因であり、就業の機会や高等教育機関の集中するAKLなど都市部に共通する傾向である*17。NZ全体では華人系人口が4.3%であることを考えると、華人が都市部に集中していることがうかがえよう。
 華人住民の存在感の大きさは、普通に街を歩いていても華人スーパーや中華料理店、北京語・広東語を話す通行人に頻繁に出会う所からも察せられる。在外華僑華人の互助組織である同郷会や会所の建物も頻繁に目にした。正直、英語が話せなくても北京語・広東語が出来れば何一つ不自由することなく生活できる環境が整っている、そんな感じがする。以下にTwitterで報告した、在AKL華人のインフラの数々を紹介する。

 AKLでも中西部は特に華人の集住する地域であり*18、今回紹介するDominion Rd.はその華人集住地域にあって特に飲食店や雑貨店の集まる商業地区として発展してきた。このチャイナタウンの担い手は彼ら「新移民/newcomer」である。次回はこのDominion Rd.沿いのチャイナタウンについて、実際に撮影した写真や店舗案内を交えて紹介していきたいと思う。乞う御期待。

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mounungyeuk.hatenadiary.jp

*1:狭い定義によれば、華僑と異なり渡航先の国籍を取得している中国系住民を指して華人と呼ぶ。とはいえ、別に厳密な定義の求められている訳ではない本稿では中港台からの華僑・華人や東南アジアで数世代を経た華人についても殊更区別することはせず(ぱっと見では無理なので)、彼等アイデンティティの一部として中国系である人々が渾然となって作っているまとまりを華人と呼称したい。

*2:Auckland Population 2018 (Demographics, Maps, Graphs), Retrieved 15 March 2018. NZ全体の人口が4,736,976人なので、この都市に如何に人間が集まっているかが窺えよう

*3:NZの他の植民都市と異なり、この時期のオークランドではイングランド系入植者よりも北アイルランド出身の元軍人の方が人口に占める割合が大きかったようだ。こうした点も国際色豊かな空間になる要因かもしれない

*4:西川圭輔「ニュージーランドの移民政策と移民の経済的影響 : オークランド経済における移民労働者の貢献と活用」追手門学院大学『オーストラリア研究紀要』32号、2006年、127-146頁。2018年3月18日閲覧

*5:"Auckland Region – 11. Driving the Economy: 1980s Onwards," Te Ara, Encyclopedia of New Zealand. Retrieved 18 March 2018

*6:可児弘明『近代中国の苦力と「豬花」』岩波書店、1979年、1-12頁

*7:中国はアヘン戦争以前もカントンシステム下で西洋諸国との交易を行ってきたわけであり、当時の清朝もこの戦争を必ずしもパラダイム転換として認識していなかったわけである。この戦争に始まる一連の「西洋の衝撃」をどの程度評価するかは議論のある所であるが、華人の移動に関しては1つの画期として捉えても問題ないだろう

*8:Ng Bickleen Fong (吳碧倫), The Chinese in New Zealand: A Study in Assimilation (紐西蘭華僑同化之研究), Hong Kong University Press, 1959

*9:新西兰175年华人移民史:“金山阿伯”的沧桑岁月 | 新西兰新闻 | 新西兰先驱报中文网。2018年3月18日閲覧

*10:Ng, op.cit., pp.14-18

*11:新西兰先驱报中文网、前掲記事。

*12:小野澤ニッタヤー「ニュージーランド華人」『華僑華人の事典』丸善書店、2017年、424頁。

*13:“低調成功人士/The Quiet Achievers,”  Auckland Central City Library, Visited 15 March 2018

*14:Newmarket Borough Council, “Chinese Relief,” ID: 369001, Date: 1937-1938, in NMB 115 Subject Files, Auckland Council Archives

*15:前掲“低調成功人士/The Quiet Achievers,” またCountdown Supermarkets – Our historyGrocer marks 50 years of ringing tills - NZ Herald参照。2018年3月18日閲覧。

*16:Meares, C., Ho, E., Peace, R., & Spoonley, P. (2010). Bamboo networks: Chinese employers and employees in Auckland (竹成网络: 奥克兰地区的华商雇主和雇员) (Integration of Immigrants Research Report No. 1). Auckland, New Zealand: Massey University, p. 16. Retrieved 15 March 2018.

*17:西川、前掲論文、134-137頁。

*18:西川、前掲論文、137頁。