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中華と酒と銭湯と

日原古道に行った(その4・終:樽沢を経て日原へ)

(前回まで:その1, その2, その3

最高ポイントで休憩した後、先へ進む。
「古道」は日原村手前で渓谷を渡るため、この地点を境に次第に下ってゆき、渓流に近づいていく。

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 ここが道中でもっとも高く日当たりがよい場所なのだが、同時に風化も相当強いようで、石灰の露頭っぽい岩肌がモロモロしていて非常に頼りない。崩壊の防止に人為的に植えられているものかわからないが、斜面には似たような感じの灌木がそれなりにまとまって生えていた。これが地味に安心感を与えてくれる。
 この箇所、対岸から見ると白い岩肌に張り付くようにして長大な石垣が組まれているのだが、現地では白っぽい砂利が積もっているわずかな幅の平場があるだけで、渡りきるまでその全貌を確認することはできなかった(そしてまともな写真を撮るのを忘れていた)。というか、これ多分日原側から渡るとなまじっか全貌が把握できてしまうので、恐怖で進めなくなると思う。高さと傾斜が異常なんだよな…

  そしてここから先の区間はしばしば斜面採掘法の餌食になったようで、道跡が完全に消失していたり、道が突然ガレで埋まったりといった光景にぶち当たることになった。

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先ほどの岩肌を抜けると完全に道が失われた谷に出て、四足歩行を余儀なくされた。これはそこを渡りきってようやく道跡が復活した時のもの。太めの杉も生えていて、ここに人間の営みがあったことを感じさせる。安堵からスマホを取り出し撮影。フイルムは忘却の彼方です。

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ここまでくると石垣への信頼感が半端ない。一生ついていきます…!

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道が沢で途切れている。かつては橋が架けられて居たようだ。

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ギリギリのところまで石垣が組んである。ここはそれほど大きい橋ではなかったのかもしれない。流れの中央にあった石を足がかりにして、なんとか大股で越える。

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 道跡が比較的しっかりしているとはいえ人間があんまりやってこない区間なので自然の浸食は甚だしい。1枚目のように東南アジアの榕樹が生えた遺跡みたいな雰囲気の岩場があったり、2枚目みたいに道跡が土砂の堆積で殆ど埋め尽くされて斜面になっていたり、

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 ここなどは岩の割れ目から木が生えて岩自体を破壊しつつある状況で、こうした感じで岩肌や石垣もどんどん失われていくことと思われる。あと、こうして横向きに枝が伸びていると非常に邪魔である。とはいえこの区間は杉林の存在もあって石垣と崖地の間に道跡が保存されており、比較的歩きやすかった記憶がある。

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 急に見晴らしが良くなった。こうして見ると、渓流に近づいたとはいえまだまだ高い位置に居ることがわかる。さっきまでが異常だったわけである。
 見晴らしが良くなった理由は沢に差し掛かったからであった。これが多分「樽沢」。写真ではあんまり大きそうに見えないけど、中央の瀑布は3mくらいの高さがありました。往年は橋を渡していたらしいけど、現在ではなんの形跡も無い。さてここを渡らなければ先に進めないのだが、結構流れも速い上、しかも滝壺からの流れはどうやっても跨ぎ切れる幅ではなかった。どうしよう……

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 どう考えても真っ当な人間のすることではないですが、冬に差し掛かる奥多摩の沢を素足で渡渉したキモ人(ひと)は僕です……暫く足の指の感覚がなかった

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 暫くすると橋脚が現れた。これが「惣岳橋」なる吊橋のものらしい。この橋ができてから府道都道は渓谷の対岸へ渡って日原へ進んでいったことになる。つまり、ここから先は今まで通って来た道よりずっと昔に諦められた道ということになり、荷車は通れない道幅、否応なしに過酷なものとなっていく。

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こんな感じで、石垣の途中がザレによって埋め尽くされ、通行が著しく阻害される。

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 パノラマだとこんな感じ。崩壊面が扇状に広がっていることがお分かりいただけるであろう。急斜面なので少しでもズリ落ちればそのまま一気に崖下の渓流に叩きつけられることになる。掴まるのに都合の良い木や岩も存在しないので非常にしんどかった。
 樽沢の前後はこうした崩壊地が断続的に存在し、神経を使わせるわりに景色は単調で面白みに欠ける。河原に出てみたりしたものの歩きづらいことには変わりなかったのでこの区間が一番倦るかった。体感時間もかなり長かったです。この時点で13:30。日が沈むまでに文明世界へ帰ってこれるか不安になってくる。

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 しばらく進むと再び岩肌に張り付くような道になってくる。ここは最初期の道の形がそのままになっていそうな感じで、現在では人間の片足の幅くらいしか残っていない。朽ちた木橋がなければ人の手による道とは思えないだろう。余りにも狭隘なので岩肌にしがみ付きながら渡ろうと試みたが、香淀さんの摑まっていた柱状節理がボコっと取れ、彼が崖下方向にバランスを崩しかけたのをみて信用するのをやめた。非常に恐ろしかった。

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 その後道跡を見失ってしまい、谷底に降りて渓流を遡った。しばらくすると再び細い道跡が確認できるようになったが、今度は杉林が現れて全てを覆い隠してしまった。杉林の手前には岩肌に上の画像のような階段?の跡が残っていたので、多分崖をへつって作った極狭の道に、ところどころ先ほどの写真のような小さな木橋を渡して通行していたものと思われる。過酷だ…

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 杉林を過ぎると林業用モノレールの車庫があり、ここから急に文明が立ち現れてくる。往時はこの「古道」が日原氷川(奥多摩駅付近)間を連絡していたことを表す看板のほか、「樽沢復旧治山工事」なるものが行われ、しっかり人間の通る道として整備が続けられていることが明らかになる。道の状態もかなり良い。

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 「山行が」のレポではほぼ廃橋だった吊橋「日原橋」も綺麗になっていた。これら一連の工事はおそらく林業従事者に向けてのものであろう。「古道」の、特に日原側の荒れ具合を見ると、あれがハイキング用にも再整備されることはまずないと思う。

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人間の道になったからと行って「古道」としての風格や魅力が失われたわけではなく、橋を渡った直後の九十九折の急上昇や、

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崖すれすれを木橋で渡してあったり、片洞門があったりと、むしろ現役ゆえ一層魅力に溢れた道のように感じられる。

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進んだ先はもう日原集落である。現道は集落の最も高いところを通っており、渓谷に張り付くようにして広がるこの集落を見下ろすことができる。

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14:35、ついに「日原古道」踏破!自分がついさっきまであの影になっているあたりで必死になって岩にしがみついたり素足で渡渉したりとアホを晒していたことが信じられない。
 白妙橋から約5時間、古道入口からだと4時間半かかっている。やはり道がない区間でかなり時間がかかっている印象。まあ生きて帰ってこれただけ有難い……

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 バスで奥多摩駅に戻る。疲れからたった20分程度を爆睡してしまった。駅前でヤマメを焼いていたのでビールと合わせて軽い昼食?とした。

 

 総括として、今回は余りにも身の程を知らなかったように思う。もう当分は再訪したくないと思いつつも、スリルにハマりそうな感じもあって恐ろしい。まだ確認できていない旧道区間があったりするので、まあいずれ……といった感じです。

 

完。

廃道踏破 山さ行がねが 伝説の道編 (じっぴコンパクト文庫 ひ 1-3)

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廃道探索 山さ行がねが (じっぴコンパクト文庫)

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